1st Phase - Australia 01

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まえがき

 

 未来を創造する事は大事な作業だと思うのですが、今まで生きて来た過去の人生を振り返り、復習しながら未来の糧になる様にする事もとても重要な事だと思いました。ただ流れて行く時間の中で生きるのではなく、自分の時間の中で生きている、「今を味わう!」という事を確認していく為、過去の記憶を辿り3つの文章にして整理してみようと思いました。

 

第1章 オーストラリア編  1st Phase - Australia

第2章 タイランド編  2nd Phase - Thailand

第3章 日本編です  3rd Phases - Japan

 

 第1章では、18歳でサラリーマンとして働いてから、ワーキングホリデーでオーストラリアに行く事になった経緯などを冒頭で書きました。オーストラリアの話だけでも良かったのですが、日本の生活から脱出して、海外生活を決意した動機を振り返るべきだと思ったのです。ケアンズで半年間働き、その後車を購入してオーストラリア一周までのお話です。かなり前の記憶を辿っているので、その時の感想など素直にそう感じているかは不明です。

 

 まあ、ザックリと楽しめれば良いと思っております。

自分の子孫は残さないので、自分の文章を残したいと思います。

少し長文ですが、どうぞお付き合い下さいませ。

 

 

1st Phase - Australia


ボンダイビーチ

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普通の生き方

 

 毎日変わらない風景を見ながら、毎日変わらない仕事をして、毎日変わらない時間へ帰宅する。生物的に生きる事に何も不満はないが、人間的に何か不満な毎日を過ごしてきた。大学へ行く価値を感じられず、高校卒業と共に就職の道を選んでみた。特にやりたい仕事ではなかったが、大手ガス会社の100%出資の会社で、設計や施工そして機器の販売などを行っている会社に就職した。職業は配管設計という少し特殊な仕事で、新築や既存の建物に対して、ガス配管の設計と見積もりを作成する。もちろん現場にも行き、環境調査を行ってから設計に取り掛かるのだが、まれに工期の迫っている物件の場合、施工を済ませてから設計と見積もりを行うと言う、順序が逆で何だか良く分からない場合もあった。既に工事は済んでいるのに、見積もりも設計も無いではないか。

 

 しかし、建築現場というものは、多種多様な業者が絡んでおり、水道やガスの場合は、菅を敷く場所に先に床を張られてしまったり、壁を先に作られてしまったりすると、施工自体出来ない場合もある。もし出来たとしても見た目が残念な外丸出しの状況になる。実用的には全く問題はないし、メインテナンスはこっちの方が断然楽だが、あくまで見た目の問題なのだろう。この様なトンチンカンな現象が発生するのは、設計が間に合わない場合に大抵起こるのだ。要は設計と施工するタイミングが重要になってくる。

 

 その他こんな事もあった。ガスの本官と言うのは道路に埋まっているのだが、その道路の所有権が原因で色々なトラブルが発生する。例えば、その道路が舗装ホヤホヤの場合、舗装してから掘削許可が出るまでに期間があり、新築の建物でもガスと水道を通すことが出来ないと言う事が発生する。その場合、水道屋さんと競合という形で、そこを管理している都や区や市などに所定の書類を提出して許可を頂くのだ。まあ、大抵の許可はこれで下りる事になる。家を建てても、ガスも水も使えないとなると、家主が大層ご立腹されるからだろう。それは当たり前の話である。この様な問題を処理する為に、ガス会社には道路許可を貰うための専門の部署がある。この人達は、常日頃から警察などに出向いて色々と大変そうなのだが、色々とメリットもあるそうだ。

 

 もっと困る事は、掘削する道路が私道の場合である。道路に面した住宅地の場合、自分の目の前の道路は他人のモノの場合が多い。これは、所有権を分散して苦情なく施工しやすい為だろう。ところが、これとは逆に完全に個人所有の道路が私道である。この道路に面して建てた他人の物件は、その所有者の許可を頂かないと掘削出来ないのである。物分かりの良い、優しいお方の場合には全く問題は発生しないのだが、稀に面倒な方がおられるのだ。僕の場合は、何回か許可を頂きにその方にお会いしたのだが、「とにかくお金を積んでこい」の一点張りだった。こうなると、こちらでは対処しかねるので、もっと地位の高い上司の出番になる。結局、自分の知らない世界でこのやり取りは終了して無事に解決したそうだが、やっぱりお金が動いたらしい。世の中はやはりお金なんだろう……。

 

 僕はサラリーマンだったのだが、ほぼ毎日朝礼には遅刻していた。学生時代にも遅刻しない日はほぼ無いぐらいの人間だったが、社会に出ても変わらずだったのだ。しかし、会社という場所は仕事重視であり、仕事であれば朝礼など関係無いのだ(ここの場合ですけどね)。何故なら、現場の仕事は直行直帰、現場調査と言うものがあり、会社の就業時間とは全く違う動きが設計者には可能だったからだ。

 

 入社したての頃は真面目に1時間半の道のりを電車通勤していたが、ラッシュの地獄の様な環境に耐えられず車で通う事にした。あのラッシュと言う現象は一体何なんだろう? 日本だけかな? あれは人の寿命を縮める苦難苦行みたいなものだと思う。と言う事で、会社まで車通勤して行くのだが、都心の駐車場も無い場所に1日中駐車していると、すっかり駐車禁止の常習犯になってしまった。今思うと、レッカー移動などを含めて数十万円支払っていた気がする。このお金を普通に貯蓄したかったな〜。あ〜勿体無い。しかし、あのラッシュと言う苦難苦行よりはきっと良かったに違いない。

 

 今なら書ける当時の仕事状況はこんな感じだ。「現場に行ってきまーす」と言って、先輩の家でゴロゴロと映画を見る。ダラダラする。17:00までボケボケして会社へ戻る。先輩ももちろん同じ会社の設計士である。本来、会社にて図面を書かなくてはいけないのだが、日中会社にいると電話応対でそれどころではなくなるのだ。したがって、日中は外に出てやる事やってから、会社の終わる時間まで外出中にしてしまう。そして、業務が終了してから図面を書きに会社へ戻る。こうすると、ゆっくり集中して図面が書けるのと残業代が付くという一石二鳥になるのであった。会社様ゴメンナサイ! こんな感じで時間の制限を感じなくて良い会社だったのでした。要するに与えられた図面を仕上げれば仕事は問題ないのである。

 

 こんな事もあった。年末の休暇を設計士全員(主任を除いて)12月28日から1月10日まで休んでしまうと言う、ほぼボイコットに近いお正月休みだ 。その時には皆んなでスキーに行っていて、1月6日辺りに主任から僕へ電話があり、「設計士全員会社に出てきてないんだけど」と言われた。もちろん全員一緒なのは極秘事項なので、体調不良を理由に電話を切った。主任ゴメンナサイ!

 

 1月11日に会社へ出社すると、机全体に山の様に新規図面がそびえ立っており、とっさに処理不可能だと思いコッソリ半分ぐらいゴミ箱へ捨ててしまったことを思い出す。先程言った様に、設計が間に合わなそうな現場は、既に施工チームによって作業は終わっているのだ。みんなゴメン許して! まだまだ思い起こせば色々あった。仕事はハードで会社へ泊まり込みといった事もしばしばで、毎日カップラーメンばかり食べていて体の調子が悪くなったことや、ある朝起きるとあり得ない時間に目覚めた事に気づき、もうスピードで準備をして会社へ出かけると、会社の門がビッチリと閉まっていた。そう、本日はなんと日曜日! なんて事もあった。かなり疲れていたのだろう。普通周りの状況で気づくって(笑)といった様な、こんな毎日を過ごしていた。サラリーマンという仕事はハードで単調でありながら、過ごし方によってはとても楽しいものだった。この様なリーマン生活を過ごしていたが、何か満たされない空虚や恐怖を感じていたのだった。若干19歳の夏だったかな。

 


若干始動

 

 ぼちぼち潮時かな? そんな事を考えながら1年半経過したのち退職願を出した。かなり引き止められたが、一度決めたら意思は固い方で全く引き下がらなかった。その後、全く同じ仕事なのだが、先輩の作った会社で片腕としてフリーで設計を行う事になった。世田谷のマンションに1人で篭り、毎日毎日僕らは鉄板の〜上で……ではなく図面の上で格闘していた。会社にいた頃と同じ仕事だが、3日間で同じ金額を稼いでいた。っが、しかし。フリーという仕事柄、収入は安定する事はなかった。そして、毎日1人という世界の中、会話する事もなくなり孤独感はMAXに達していた。仕事もあるしお金もあるし、変なストレスを感じず良いのだけれど、この生活を一生続けるのはピンとこなかった。よし辞めよう!結構あっさり見切りをつけた。


 その後ついた職業は、屋根屋さん。板金屋さんが正確なのかな? そう、職人の道へ突入したのだった。職人の世界は日給月給で、親方の元で修行しながら仕事を覚えて、定年もなく生きて行く仕事だ。サラリーマンと違い一生やっていけるお仕事。気性は荒いが内面はとても良い人たちが多く、感覚的にはこの世界の方が過ごしやすかった。会社にはバングラディシュ人3名が働いており僕の先輩になる。彼らが人生で初めての外人の友達になった。

 

 その頃のバングラディシュと言う国の僕のイメージは、かなり貧困な国で食べるのもやっとという感じだったが、彼らの話を聞いてみると必ずしもそうではなく、特に日本に出稼ぎに来ている人達はそこそこ裕福層の人達で、何年か日本で稼いだのちに母国へ帰って商売をするという話だった。彼らはとても楽しく良い人間だった。まあでも、日本と違うので、人を殺めた事もあるらしい話もしてたが……。でも良い人達だった。仕事も真面目でバリバリ出来て、 周りの人達のムードメーカーになる様な人柄だ。毎日のお弁当のご飯に、全然美味しくないと言って七味唐辛子をぶちまけていたのもかなり笑えた。沢山の色々な話をしたし、遊びもしたし、仕事も教えてもらった。

 

 暫くしてから、コンビニの店長をしていた中学時代の親友を無理やりこちらの世界へ引き込み、皆んなで楽しい職人生活を過ごす事になった。普通、職人世界は日曜日が休みなのだが返上して働き平日休暇を取っていた。平日はどこに遊びに行くにも人混みもなく快適に遊べた。その頃の冬は毎週の様にスキーに行っていた。前会社でもスキーに行っていたが土日が多く人混みの中だった。しかし、平日のスキー場は休日と全く違い、完全にパラダイスだった。!

 

 ところで、ここでの仕事は屋根屋なので屋根張りや雨樋付けが基本なのだが、その他にサイディングと言う外壁の施工なども行ったし、高所での溶接のお仕事もした。その後は型枠大工のお仕事もした。とにかく、この2つの職業で釘打ちが上手くなったのは間違いない。

 

 きっかけはよく覚えていないのだが、そんな中でアートに興味が湧くようになった。もしかしたら、音楽が好きだったのでレコードジャケットから美の道が発生したかもしれないし、今考えると職人という仕事はアーティストと変わらないので、そこからかも? まあとにかく興味を持ってしまったわけである。そこで、アートの学校に行きたいと思い、その頃流行りの『ケイコとマナブ』と言うお習い事バイブルを読み漁りスクールを探した。と言っても制作する方ではなく知識の方に興味があった。アートの学校は選択肢がかなり少なかったので、あっという間に探すことが出来た。働きながらでも行けるコミュニティスクールで、「画廊運営論」と「アメリカ現代美術作品作家論」と言う2つのクラスを受ける事にした。ここで出会った人達が、僕のこの先の運命を決める事になるのだった。

 

 

アートスクールからワーホリの道へ

 

 画廊運営論は銀座の画廊で働いているTさんと言う女性が講師で、現代美術の方は、現代美術作家のMさんと言う男性の講師だった。どちらのクラスの生徒もすべて女性で、男は僕1人だった。紅一点とは反対の黒一点だった。僕より年上でお姉さまばかり、経歴も多種多様で個性に飛んだツワモノメンバーだった。講師の先生もクラスメートもかなり楽しく、プライベートでもよく遊んだ。一緒に画廊を見に行ったり、歌舞伎を見に行ったり、アートについて語ったり、もちろんお酒もよく飲んだ。そして、スクールを通して作品の手伝い、作家の方の家の庭に行って竹の子を掘ったり、美術館の館長の案内での美術館見学など、本当に沢山の事をここで経験し学んだ気がする。

 

 職人の僕を高く買ってくれたのは現代美術の先生だった。この髭ずらのおっちゃんは、サンフランシスコで活躍していたアーティストで、テレビやらにも出ていたらしいのだが、とにかく面白い人だった。「アーティストがやっている事は、基本的に職人さんと変わらないんだよ」っと言ってくれていた。この人の授業のおかげで、この後10年間も意味の難解さに手こずったヴィトゲンシュタインを知ることになる。ところで、この先生の作品自体はあまり売れなかったみたいだ。しかしかなりストイックな方で、子どもを産むために10年間も射精しなかったと言う筋金入りの変態だ。人生がアートしている人だな〜とその頃思っていた。いや、アートとは人生そのものなのかも知れない。っと思ってもみた。世界に4枚しかないという彼のシルクスクリーン作品を、僕の誕生日という事で無理やり頂いた事もある。ちゃんとまだありますよー。

 

 ある時、お姉さまの1人と自宅で飲んでいた。この人はオーストラリアに行った後ニューヨークへ行き、そして日本へ戻って来た経歴があった。この頃の自分では考えられないような経験をしていたのだ。まだ海外も飛行機も未体験だったし。そして、この時に見せられた写真が衝撃的だった。それはオーストラリアの写真達で、今まで見た事もないような景色の数々であり、日本の景色とは全く違うものだった。その写真に写っている人達の、心の底から湧き出してくる様な本気の笑顔や、手付かずに見える大自然の偉大さなど、感動と言うより衝撃! こんな空間が地球上にあるんだ! 心にドカンと来たもんだ。これは人生の中で絶対に知らなくては損だ! と言う強い思いに駆られた。そんな写真や話の中で、ワーキングホリデーという制度を初めて耳にしたのだった。「よし! 絶対に行く」良く分からんけど絶対に行く! 先ほども触れたように、一度決心したら意志は固い方なのだ。

 

 それから2年間お金を貯めて、初海外旅行&初長期滞在への旅に突入するのだった。行くと決めてからと言うもの、全く遊ばず仕事と帰宅の日々を繰り返し少しお金が貯まった。これも家族がいて、衣食住に困らなかったからであり、この助けがなければとても叶わない計画だった。家族とは本当に有難いものだ。家族にはとっくの昔にワーホリに行くと言っていたのだが、本気で行くとは思っていなかったらしく、出発の数週間前にはかなり驚かれた。母親はかなり心配していたみたいだが、父はどちらかと言うとオッケーな感じだったと思う。しかし、さすが自分の親だった。最終的には揉める事も無くすんなりOKを頂いた。まあでも、もし自分が親だったらやっぱり心配だろうな?

 

 ところで、ワーホリのビザ申請の際に大使館に行くのだが、その時に前で並んでいる女の人が辞書が無くて困っていた。何気なく貸してあげたのだが、これがきっかけで仲良くなり、たまに会って遊んだりした。これってナンパなのかな? その際に、既にオーストラリアのボンダイビーチに住んでいる彼女のお友達を紹介して頂いた。その女性の名前は今でも覚えている。かなり綺麗な人だった。結局その女性は結婚するとかでワーホリには行かずになってしまったのだが、良いつながりを教えて頂いた事に感謝感激だった。

 

 そんなこんなの初海外で、何を持って行って良いかも分からず、取り敢えず60リットルのバックパックと寝袋を買い、何故か持っていかない冬服と、これまた絶対に持っていかないテクニクスのMarkIIIと言うターンテーブルを初クレジットカードで衝動買い。自分でも何やってるのか意味不明な行動だった。若いと言うのは本当に羨ましくもあり、本当に恐ろしい事だ。そして、日本の友達に今生の別れと思うぐらいの送別会をしてもらったり、身近な風景を自分の記憶の中に刻み付けたりと、毎日がしっかりと自分の中で消化されていく感じがしていた。最後家を出る前に母のお守りを持ってとうとう成田空港へと出発した。

 

 

出発

 

 初の成田空港、緊張しないわけがない。尚且つ初海外旅行なのだ。これからの旅がどう楽しくなるかより、不安と緊張で爆発しそうだった。飛行機に乗るのも初めてだし空港自体も初めてなわけで、どこに何があるのやらさっぱり分からず、本当に今考えても恥ずかしい限りだったが、あの頃はとにかく必死だった。自分の中でものすごい不安に襲われていたのだが、その反面これから何が起きるのかも楽しみだったのかもれない。とにかく何とかなるという気持ちで飛行機に向かった。そして、想像していたよりも狭い通路を通って座席に着いた。座席に座ると、隣は外人っぽい綺麗なお姉さんだった。今考えると飛行機は別に特別な乗り物だと思わないが、当時の自分にとっては、飛行機と言うものは特別な人ぐらいしか乗らないんじゃないかと言うくらい、乗り物としては別格の物だった。もう心臓はすでにバックンバックン。これから1年間は日本に戻って来ないかと思うと、ちょっと切ないし、これからオーストラリアに行くかと思うと、間違いなくワクワクしてるし、今までに味わった事のないような気持ちでいっぱいだった。

 

 そんな事はどうでも良いと思うくらいに、飛行機は定刻どおりに日本の土地をジワジワと離れていった。今でも思う事だが、飛行機がグングンスピードを上げていって飛び立つ瞬間というのは、人類は本当にトンデモない物を造ってしまったんだなとつくづく感じる瞬間だ。そしてものすごく気持ちの良いものでもある。これがあるから飛行機が好きでたまらない。この頃は、今よりも感動の度合いはものすごく大きいものだった。そして、他の乗り物と違う事として、飛行機は機内食があるということである。なんとも嬉しいサービスだ!人によっては、この機内食の良し悪しで乗る飛行機会社を決めている人もいるぐらいだ。きっと飛行機会社もこれに関してはかなり悩んでいる事は間違いないだろう。この時はもちろん初めての機内食で、予想通りちょっとした恥ずかしい事件があった。

 

 外人さんのCA(当時はスチュワーデスと言ってましたね)がジワジワと何やらお客さんに聞きながら近寄って来ている。いったい何を話しているのだろう。もちろん僕は英語なんかはっきり言ってよく分からない。どんどん近寄ってくるCAにだんだん恐怖すら感じてきた。あっという間に僕のところに来て、なにやら話しかけてきたのだが良く聞き取れず、「もう一度」と言いながら、今度はよ〜く聞いてみた。「チケットは持っていますか?」「あ! はいはい、ちょっと待ってくださいね!」と出そうとした瞬間。隣の女性が日本語で、「魚と鶏肉どっちがいいかって聞いてるよ」と言ってきた。な! なにー! まずは、この女性が日本人だったんだ! と言う驚きと、チキンとチケットと聞き間違えていたんかい! というダブルショックで、ボディー&アッパーカットを頂いた様な、立ち直れるか危うい良いパンチを受けてしまった。その時はスーパー恥ずかしい事だったが、今となると笑い話の一つになってしまっている。

 

 隣の人は日本人だったんだと言う事が分かってからは、緊張が一気に緩んで安心したせいか喋りまくっていた。この人は、横浜のミキさんという人で、行き先はロンドンだった。経由地のクワラルンプールまで一緒で、その後はお互い違う飛行機で目的地はバラバラだった。この人は頻繁にロンドンへ行っているらしく、行く道中で毎回の様にオーストラリアのワーホリへ行く若者が困っている時に、愛の手を差し伸べているという事だった。機内で色々な事を話しているうちに、あっという間にクワラルンプールに着いてしまった。空港に着いた瞬間に、ムワンという熱気が体を覆った。日本の夏とは少し違う熱さだ。サウナに入っているような気がしてきたが、とにかく空港の座れる場所に直行した。

 すると、ミキさんがいきなりズボンを脱ぎ始めた。もちろん他の人もいる前でだ。目の前に居る僕は本当にビックリしたがすぐに分かった。すっごい頭の良い人だなと、もの凄い感心したのを覚えている。脱いだ下にはスパッツを履いていたのだ。ミキさん曰く、「ここは熱いからこうしておくと便利なんだよね」さすが旅慣れている人の行動だと思わず感動もの。自分も早くこういう人間になりたいものだと心の中で誓ってみた。ミキさんはここで5時間ほど待たなくてはいけなかったが、僕は3時間ぐらいだった。ストップオーバー出来たので市内にも行けたのだが、自分の今の力量ではきっと戻って来れないと思い、2人でやはり喋り捲っていた。ほとんどミキさんの話を聞いていたが、なんと!この人はイギリスへ亡命希望だった。

 

 兎にも角にも、あっちで住みたいとの事だった。マジで熱い人だったので、もし探せる事なら今すぐにでも会ってお礼を言いたい気持ちで一杯だ。僕はこの人にこの時もし出会わなかったとしたら、これから訪れる色々な出来事に立ち向かえなかったんじゃないかと思う。だが、彼女を探すのにはあまりにも手がかりが少なすぎる。横浜のミキさんしか聞いていないからだ。今頃うまくやっている事を祈るばかりです。ありがとうございました。人生の中での人との出会いと別れには、色々な因果関係があると思うが、嬉しくもあり切ないものでもる。心に残る人と言うのは、共有する時間の長さとは必ずしも比例しているとは限らない。

 

 

メルボルンでの事件

 

 ミキさんとはここでお別れをしたのだけれど、僕には彼女がものすごく頼もしく見えたので、本音を言えばもうちょっと一緒にいたかった。しかし、これも避けれない道だと思い次の難関に向かう事にした。マレーシアから飛行機で数時間でシドニーかと思いきや、まずはメルボルンらしかった。てっきりシドニーに行くのかと思っていたけど、なんだか違う様子だった。自分の行く経由地すらも良く分かっていなかったらしい。本当にこの先大丈夫なんだろうか? と頭によぎったが、若かったせいもあり、とにかくあんまり難しい事は考えていなかった。と言うか考えないようにしていた。

 メルボルンに着くと、何やら人間たちが動き始めたのでちょっと不安になったのだが、ここで降りてはいけないのだ。行き先はシドニーなんだ。なんて思っていた。後から考えるとかなりおバカでしたが。そんな感じで頑固に席に座っていたのだが、後ろの席に座っていた多分中国人のおばちゃんが何か言っている。言葉自体は良く分からないのだけど、ジェスチャーで、「私の荷物を運ぶの手伝え」と言っているらしかった。もしかしたら敬語だったかもしれないが、その時は命令系に聞こえた。かなりカチンときたが、こんな事で怒っていてもしょうがないので、善人を装い満面の笑みで荷物運びを手伝ってあげた。飛行機を出て、空港の入り口で何やら券を配っていたのだが、またこの飛行機に戻って来ると思って券を取らずに進んで行き、おばちゃんに荷物を渡して飛行機へ戻る事にした。

 ところが、さっきみんなに渡していた券を持っていないと言う事で入れない。オマケに僕のバッグはまだ機内に置き去りのままだった。オージーのCAのお姉ちゃんに、自分でも分からないような英語で、「僕のバッグはまだ機内なんだ」と言ってみたのだが、案の定、全くと言っていい程通じていなかった。残る戦法はと言うと、とにかくまくし立ててみた! 大げさなジェスチャー付きで。かなり真顔だったせいか何なのか、とにかく僕のバッグが機内にあるんだということが理解してもらえた様だ。しかし券が無いからやはり機内には入れないと言った風な事を体で示された。僕の中では、別に硬いこと言うなよ! という感じだったので、このお姉ちゃんには本当に参ってしまった。


 しばらくこんな調子で終わりの無い戦いを繰り広げていると、機長がやって来てこのやり取りを見た。「オイオイお前らどうしたんだ?」と言うような感じで話しかけてきた。まずは姉ちゃんがまくし立てていきさつを機長に話した。その後「君何人?」と聞かれたので、「日本人です」と言ったら、「別にいいよ!取りに行きなよ。」だとさ。今まで揉めてたのはいったい何だったのだろう? 特にあの姉ちゃんは何だったんだろう? 最後は舌打ちして僕をにらみやがったし。とにかく早くバッグを取りに行く事を思い出した。

 機内にはお客さんの姿はなく、掃除のおばさん達だけだった。ヤバイ! 荷物無くなってるかもしれない。と一瞬頭をよぎったが、僕はよほど運が良かったか、もともとこういう国なのかは分からないが、バッグは元の位置にそのまま置いてあった。「ヨッシャー!」おばちゃん達は不思議そうに僕を見ていたが、見事クリアーして空港に戻っていった。もちろん今度はちゃんと券を貰って。でも、本当はダメだったんだろうな〜。機長がたまたま良い人だったのと、お姉ちゃんの権限では無理だったのだろう、なんて思ってみた。まあとにかくクリアーしたのだ。


 実はここでみんな降りなくてはいけなかったらしくて、結果的には自分が悪かったのだ。初めての1人ぼっちの海外旅行、初めてのオーストラリアの空港、自分以外の周りはみんな外人、今までに無い感動と不安で、頭の中はどんどん真っ白になっていった。こんな感じのまま又飛行機に乗り、いざ目的地シドニーへ飛び立った。外は夜だった為か、心ここに在らずだったせいか、窓からの景色は全然見えなかった。

 

 

シドニー到着

 

そもそも、オーストラリアには何しに来たのか? 何の為に来たのか? 目的を持たずにただ来てしまった為か、シドニーでの行き先は、ザックリとしか決めてなかった。ユースホステルに行こう! グリーブポイントという地名の。空港からは取り敢えずバスに乗って市内へ行く事になったのだが、やはり英語も分からずなので降りる場所も分からず、結局終点まで行ってしまった。その終点の場所が、≪キングスクロス≫ と言う悪名高い場所だったことはその時には知らなかったのである。降りた途端に物乞いに会う。ひたすら歩いて宿探し、グリーブポイントにあるユースホステルに行く予定なのだが、道に迷ってと言うか地図と自分の居場所がよく分からなかったので、多分4時間位同じ様な所をブラブラしていたんじゃないかと思う。大きい荷物を背負って都会をウロウロ歩いている姿はかなり滑稽だっただろう。タクシーに乗ってしまえば楽だったのだが、まだ旅の始まりで無駄使いをするのはどうかと思い、ひたすら歩き続けた。

 

シドニーのオペラハウス

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​ ディーパックに大きな寝袋を付けて、ひたすら歩いている日本人を気の毒に思ってかは知らないが、綺麗なオージー(オーストラリア人)のお姉ちゃんに声をかけられ、「あなたはさっきから何処に行こうとしているの?」と英語で言っている様に聞こえたので地図を見せてみた。すると、いきなりタクシーを捕まえて運ちゃんに「ココよ!」と言いながら僕は車の中に掘り込まれた。「オイオイ、タクシーのお金をケチって今まで歩いていたのにこれじゃー意味無いじゃん! だったら最初からタクシーを使えば良かったよ! 」と思ったが、お姉ちゃんの優しさに負けて乗り込んじゃいました。人の優しさに答られるときには答えておくのもたまには良いよな、なんて思ったりして。と言うか、すでに疲れ果てていたのだった。足ガクガクじゃ。

 

 

YHA(ユースホステル・グリーブポイント)

 

 ここに来るまでの所要時間は、無駄な時間の大安売りをした様に見えたが、この苦労はきっと無駄にならない筈だ! と自分に言い聞かせてみた。まあでも、結局笑い話にしかならなかったみたいだが。ユースの入り口に入ると、本当に色々な人種の人がいるものだと初めて感じた。もちろん飛行機の中でも色々な人種の人がいたが、もっともっと親近感があるのだが、それでいて言葉が違うと言うちょっと不思議な感覚だった。同じ匂いを持っていると言うのが合ってるかも。ザワザワした中で暫く何も喋らず様子を伺ってた。受付の男性はどうやら日本人らしい。英語を巧みに使い沢山の国のお客さんに対応していた。この頃の自分にとって彼はかなりカッコ良く見えた。混雑する中タイミングを見て、藁にもすがる思いで宿泊出来るかを彼に聞いてみた。彼は快く応対してくれて、今晩の寝床を確保することが出来た。ドミトリーというシステムも初めてで、貴重品とか大丈夫かな? とかなりの心配具合だったが、とにかく寝床があることはとても心を落ち着かせてくれるのだった。そして部屋に行って荷物を置いた。旅をしていてやっと宿が見つかった時は、何とも言えないホッとした感がある。


 まずはこのユースホステルの探検だ! 部屋に入ると2段ベッドがビッシリ収まっていた。下段のベッドは満室だったので上段のベッドに寝る事にした。キッチンはみんなで共同、冷蔵庫もみんなで共同、トイレもシャワーもみんなで共同。とにかく皆で共同なのだ。ドミトリーってヤツですね。色々な人種の人が沢山いて、それぞれ気ままに過ごしている様だった。僕はといえば、かなり緊張していたんじゃないかと思う。それと疲れていたので少し寝てみた。しばらくして、やっぱり人恋しさと言うか、誰かと話をして色々な情報を集めないとダメだと思い、小心者爆発、ユース内にいる日本人を探しに行ってみた。時間的にもお食事タイムだったのでキッチンに行ってみた。沢山の人が居る。一人で食べている人、皆で作って食べている人達など、様々なスタイルだったがみんな楽しそうだった。

 ユースは共同のキッチンを使い自炊なのだが、先ほど到着したばかりで何も持っていないのと、全ての勝手が分からずだったので、少しボ〜っとしていたが、勇気を振り絞って日本人グループの作っているお好み焼きに狙いを付けて話しかけてみようと思った。しかし、なかなか話しかけずらかったのを思い出す。そんな事を考えている僕を察してか、日本人グループが声をかけて来てくれて、「皆んなで食費をシェアして食べませんか?」と言う、神の様な言葉をかけてくれた。もちろんイエスだ!それも即答だ!その時には色々なシドニーの話を聞いた。旅をひたすらしている人も、既に働いてる人もいて、本当に涙の出る様な情報を教えてくれた。冷蔵庫のシェアの仕方、貴重品の管理の仕方、美味しいお店や買い物する場所など。皆とても親切に新参者を受け入れてくれ感謝の言葉しか見つからなかった。そこで南十字星を初めて見て、ニセ南十字星というものがある事も知った。


 どうなる事かと思ったが、この日の夜はご飯をちゃんと食べる事が出来て幸せだった。もちろんぐっすり眠る事も出来たのだが、この日の夜中に2階のベッドから落っこちたのだ。運良く自分の荷物の上に着地した、ニャンパラリンって感じで!突然の出来事で自分自身でもかなりビックリしたが、怪我がなくて本当に良かった。朝起きると皆に心配された、と言うかバレてるんか!めちゃめちゃ恥ずかしかった。しかし、もし荷物が無かったら…… 僕の旅はこの時点で終了していたかもしれなかった。


 次の日の朝は少しゆっくりめに起きた。タバコを吸いに1階のロビーらしき場所へ行き、2つの椅子のうちの1つに座ってゆっくりタバコに火をつけた。隣に座っているのはどう見ても日本人だったが、お互いしばらくはタバコを吸うのに集中していた。後で分かる事だが、このとき2人とも「これからどうしようかな〜?」って思っていたらしい。でもお互いの存在は気になっていたらしくほとんど同時ぐらいに喋り始めた。どうやら彼はすでに車を持っていて、そして盗まれて、そして最近発見されたらしかった。バタバタが解決した後でけっこうご機嫌さんだったのだ。

 その車を見にガレージに行くと、数人の日本人と友達になり、そして少しずつだが、シドニーやワーキングホリデーで来ている人達の生活などを垣間見ていった。同じ日本人で、とある海外の、とある街で、ある時間を一緒に過ごした仲間というのは、日本で色々な事があったにせよ、とても貴重な出会い方だと思う。みんな自分の可能性に賭けて、オーストラリアにチャレンジしていた。2人で色々話し合った。自分も先の事を多少は考えていたが、やはり語学の重要性が頭を過ぎり、英語の上達の為に英語学校に行くべきでは? と言う意見が一致した。「じゃ〜早速一緒に旅立ちますか!」という事になったのである。車代を半分支払い、あとはすべてシェアすると言うルールで。その時に出会ったS君とはこの先色々あるのだが、生涯の親友として今でも付き合っている。

 

S君 シドニーのYHAにてS君

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旅立ち

 

 S君は、黒い革ジャンを着てがっしりした体型だ。何処となく赤井英和に似てるかもしれない。バリバリの大阪弁で明るく、後ろを振り返らないタイプに見える。ここでは色々な地域の場所から来ている日本人が沢山いるが、それ以上に色々な国から来ている人も多いので、どこ出身という疑問はそれほど重要視されない。今まで経験したことのない人種の坩堝は、特殊な雰囲気で皆がフレンドリーなのだが、皆それぞれ自分の中にある何かを輝かせており、何故か、より一層孤独感を味わうと言う、ちょっと複雑な気持ちになるのだった。車の方は、イタリア車の老舗アルファロメオ! けっこう古いタイプだが、最近の丸みを帯びたフォルムではなく、ハコスカの様に角張っている。僕は昭和生まれなので最近の曲線デザインはあまり好きではない。ハッキリと方向性のある直線で、とても可愛い赤い娘さんだ。恐らく気性も真っ直ぐでオテンバなはずである。


 旅立つ前に行く所があった。日本でビザを取る際に出会った女性の話をしたが、そこで教えて頂いた彼女の知り合いと会いに、ボンダイビーチまで行く事だ。道も不安だったのでバスで現地まで行き電話連絡をしてすんなり会うことが出来た。日本だったら警戒してかなり困難な他人との知り合い方だっただろう。でも、海外だとそんなに特殊ではないらしく色々と情報を教えて頂きとても良い男性だった。シドニー滞在が2週間ほどになった頃、2人は大都市を後にしてまだ見ぬ広大なオーストラリアの大地へと旅立って行った! まず目の前の目的は英語の学校探し。シドニーでも星の数ほどあるのだが、やはり大都市なので値段がかなり高い。多分地方へ行けば安くなるのではないか? と言う全く根拠のない理由を2人とも信じていたのだった。

 

アルファロメオ

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キャンベラへ

 

 オーストラリアの首都は? という質問に、大抵の人はシドニーと答える。自分も最初そう思っていたが正解は……「キャンベラ!である」ん? 何処だソレ?って感じですよね。シドニーから南西へおよそ300キロとまあまあ近いので?色々見ながらこの首都キャンベラという場所で学校を探してみようという事になった。キャンベラへ行く途中に海が現れた。ビーチの長さは見えないぐらいまで続いていて、そのビーチには誰もいない寂しい感じがしたのだが、この国の大きさも同時に実感した。空は雨が降りそうで降らない曇り空。僕はこの様な雰囲気が好きだ。晴れではなく曇り空、コバルトブルーの海ではなくどちらかと言うとドス黒い群青色、しかし砂浜は真っ白って感じの風景。この様な風景を見ると必ず思い浮かべる曲がある。日向敏文さんの「サラの犯罪」というアルバムの中の一曲。このアルバムは、僕の人生の中でもヘビロテ率ナンバーワンです。


 キャンベラに着く前に車の中で2人で決めたルールがあった。「今から会話は全て英語にしよう!」と言うものだ。スゴイありがちだが、英語を習得するという情熱的なアイデアだった。「さあ、今からだよ、日本語喋ったら罰金ね」「How are you ?」「I'm fine thank you」「……」「……」今まで車内で散々話していた2人だったが、一気に沈黙の世界へ突入! 「ダメだー、やめよう」「あ~日本語喋った!罰金だ」いやいや、これは精神的に絶対に良くない! と言うことでお互いに納得。あっという間にこの素晴らしいアイデアはお蔵入りになりました。めでたしめでたし。

 

 

発明おじさん

 

 キャンベラに行く前に寄った場所があった。シドニーの飲み屋さんで会ったおじさんの家だ。S君がバーで意気投合して飲んだ結果、「旅の途中に俺の家に寄りなされ」と言う事だったので早速行く事にした!おじさん家の周辺は、絵本に出てきそうな風景の場所で、家族全員でお出迎えしてくれた。日本人で言うと関西人みたいなノリのとても良い人で、何だか怪しい発明が趣味らしかった。オーストラリアは土地もデカイが人の心も相当デカイ! 食事も頂き最高のおもてなし。そこに小学生ぐらいの息子君がいたのだが、「朝食のパンにこれ付けて食べると美味しいよ!」と言うので、そのチョコレートらしきモノをパンにべっとり塗って食べてみた。「うわ~ナンジャコリャ?」お味噌みたいな味の謎の物体で、ちょっと好きになれない味だった。これが、かの有名なベジマイトとの出会いだった。

 

長閑な風景

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 外国にはよく分からん食べ物があるんだな~っと思ったが、日本の納豆も人の事は言えないかも。庭に出ると、おじさまの最大の発明品が置いてあった。自転車をこぐと電気が作れる仕組み。自転車の先からはコードが伸びており、その先にはテレビが置いてあった。自家発電機! おっさんマジか!最高に楽しい人だ。 早速こいでこいでこぎまくる!かなりの力でこいでやっとテレビがほんのりついた。「やったー!」でも、このマシーンで電気を作るたびに、人間1人ダメにしそうだけど的な発明品だった。ココを離れるのは寂しかったが、旅はまだ始まったばかり、先に進まないと! という事で、チャンスの神様は前髪しかないが、この時は旅の神に後ろ髪を引かれながら、このファミリーの元を去って行ったのだった。発明おじさん、そして家族の皆さま、ありがとうございました。

 

キャンベラの発明おじさんの自家発電テレビ

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発明おじさんの家族。ありがとうございました!

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キャンベラ到着

 

 周りの風景を楽しみながら、英語ではなく日本語の会話を車内で楽しみながら、オーストラリアの首都シドニー! ではなく、キャンベラに到着した。キャンベラは区画整理された本当に綺麗な街だった。日本の首都東京と違って全く賑やかではなく、厳かな感じの街だ。 歴史資料館など見に行ってしまったりすっかり観光気分。しかしココはものすごい寒い。宿を見つけてホッとしていると、何やら謎の日本人と出会うことになった。名前はノミさん。もちろんニックネームだ。いかにも勉強できそうな面持ちで、奨学金でここの学校に通っている見た目通りの間違いなく勉強できる人だった。泊まり客は様々な人種がいたのだが、このノミさんの英語はお世辞抜きでベラベラだった。外人相手にギャグを言って相手を笑わせていた。僕らの中では念願の奥義、「外人を英語で笑わせる!」技をすでに修得済みだった。すげー羨ましい。どうやったらこの域まで達する事が出来るのだろうか?

 

キャンベラ

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 次の日の朝目覚めると、辺り一面は白銀の世界 「おおお~!雪だー! すげー綺麗だー!」 っと喜んだのだが、そうでもいられなかった。すぐさま車を見に行った。すっかり白の塊の中で埋もれているお姿になっていた。エンジンは? あ~かからない。ラジエターの冷却水が凍っている。宿に戻りお湯を頂き、直接エンジンにブッかけてみた。しばらくは全く微動だにしない。お嬢様はほぼ凍死寸前だった。ここで車の旅は終了してしまうのか…… いやいやまだ出発したばかりじゃないか! 2人で真剣な顔で車を見つめていると、ブルルル~ブルルル~ブオーン!キター! 生き返ったー! 僕の心臓に毛は生えてないんだよ、ヒヤヒヤさせないでくれよお嬢さん。白雪姫はキスで、このお嬢さんはお湯で目覚めたのだった。


 キャンベラの山にはこの時期少し早めの雪が降っているらしく、車で1時間程のスノーウィーマウンテンという場所に遊びに行ってみた。360度のスッキリした視界。地平線と岩石群と白い雪。全てが調和していて解放感全開の景色はとても気持ちの良いものだ。空気もきれいで美味しく、思いっきり深呼吸をしてしまう。もっと雪が降ればスキーも出来るらしい。近くに宿をとり、すっかり日も暮れたベランダに出ると、メルギブソン的な外人が僕らに、「あそこ見てごらん」っと言ってきた。数メートル離れた木の上に野生のポッサムがちょこっと乗っていた。そして彼は、その子を手でヒョイと捕まえたのだ。人間怖くないんだ~。ちょっと不思議な気分だ。街の中でも自然があり、人も環境も今まで住んでいた世界と違う場所に来てるのだな~っと改めて感じた。

 

スノーウィーマウンテン

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ノミさん、S君、ポッサム

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 さて、当初の目的に戻る事にしてみた。この街で有名な英語学校を見たのだが、やっぱり値段はお高めだった。まあシドニーよりマシだったが。このお金あったら旅の費用に使えるよな~。「せっかくオーストラリアまで来て、英語の勉強だけして帰るのはもったいない。旅をしながら勉強しよう! そして何処かで働こう! 」という事で、かなり簡単に予定が変更したのだった。やはり若いって素晴らしいー!

 

 

つづく...... 

 

 

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